漢字の借用から日本語を考える
2010-01-29


 お久しぶりです。
 未だかつてないくらい、更新に間があったような気がします。1月も、もう終わろうというのに、なんと、今年初めての書き込みです。
 「あけまして・・・」などとは、いまさら言えませんね。

 さて、書き込む余裕は無くても、本を読む時間は、少々ありました。仕事中に書き込みができれば良いのですが、デスクワークではないので、なかなかそうもいきません。
 書き込める環境を作れないことはないのですが、お財布にやさしい話ではないので、今はちょっと・・・。

 以前、「漢字と日本人」(高島俊男:文藝春秋)という本を、ちょっとだけ紹介しましたが、その中で、もっとも興味深かったことが、「訓読み」という荒業?です。
 元々、読みの異なる文字(漢字)を、自分たちの言葉(和語)に当てはめて読んでしまうのですから、斬新というのか、無茶と言うのか、ある意味、すごいことだと思います。
 例えて言うなら、「cat」と書いて「ねこ」と読むようなものですから・・・。

 そこで、「訓読み」が妙に気になったので、次に物色した本が、「訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語」(笹原宏之:光文社新書)です。
 こちらは、前述の「漢字と日本人」とは、また違って、訓読みという行為を、好意的に捉えている印象です。
 さまざまな訓読みを紹介しているので、その柔軟性というのか、いい加減さが良く分かり、日本語というものが、言葉遊びの延長線上に存在しているような気がしないでもありません。

 ここまで読んできて、なんとなく分かるような気がしてきたのは、漢字を取り入れる前の日本語についてです。
 もちろん、その当時の言葉が分かったというほどの事ではなく、まず、漢語と和語の区別がなんとなく分かってきたということと、文法構造は変わっていないということです。

 さて、ここで、さまざまな事が頭をよぎります。
 稲作の伝来ルートは、朝鮮半島経由が有力ですから、少なからず、人の移動を伴っていたはずで、当然、言語への影響もあったはずです。
 地理的な距離からも分かるように、考古学的、人類学的にも、朝鮮半島は距離が近いといえるようなので、その関わりが気になります。
 そこで、ちょっと悩みつつも、以前から少し気になっていた「日本語の正体 倭の大王は百済語で話す」(金容雲(キム・ヨンウン):三五館)です。
 この本は、以前、読売新聞の日曜版に紹介された本で、紹介されてから、しばらく経つのですが、気になりつつも手を出さなかったのです。
 改めて、書店で眺めてみても、どうも躊躇する自分が居ます。直感的には、どうも”胡散臭い”のです。
 それでも、きっと何か得るものはあるだろうと、読んでみました。
 なかなか、評価の難しい本で、ここまで、「なるほど」と思える事は、「それは無いだろう」と感じることの落差の大きい本は珍しいかも知れません。
 あえて、一言で言うなら、「事実をところどころに散りばめて、うまくつなぎ合わせたフィクション」という印象です。
 流石に、著者が数学者であるだけに、とてもうまくまとめてあるのです。
 しかし、どうにも引っかかるものがあって、全体として納得がいくものではありません。それは、「日本書紀」などの歴史書の記述を中心に考えているようなところがあるから、かもしれません。(何せ、私は苦手ですから・・・・。)
 でも、部分的には評価しているんですよ。だから、もうちょっと違う形のストーリーがあるのではないか、というのが私の直感なのですが・・・。


続きを読む

[日本語]
[本]

コメント(全50件)
※コメントの受付件数を超えているため、この記事にコメントすることができません。


記事を書く
powered by ASAHIネット